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大岡裁判

  • 2009/08/14(金) 09:52:02

大岡越前守は、江戸時代中期の名奉行として知られる大岡忠相の事。

彼の名奉行ぶりは、後年に創作された「大岡政談」に詳しくが、『畔倉重四郎』『村井長庵』『徳川天一坊』『越後伝吉』『小間物屋彦兵衛』『縛られ地蔵』など幕末に人気を博して、写本や講談、歌舞伎などに発展している。その殆どは彼の名奉行ぶりから出た創作であると検証され『白子屋お熊事件』ぐらいが実際に行った裁きだとか。

その物語の有名なものの一つに大岡越前が実母権を争う二人の女の裁きがある。彼は白州で実母を主張する二人の女に、子供を両方から手を引っ張らせています。結局、実母は痛がる子供が不憫で手を離してしまうのですが、大岡は手を放した女こそ母である、との裁きを下す。

彼の話のほとんどが中国の『棠陰比事』や『板倉政要』で書かれた裁判話の焼き直しだと言われています。しかし、『棠陰比事』に見る実母権を争う二人の女の話も元を糺していくと旧約聖書・ソロモン王の名裁きにあたります。

旧約聖書の列王記には、互いに実子と主張し一人の子を取り合う2人の母親に対する調停の伝承があります。ソロモン王の前に現れた二人の女に一つの決断をしました。剣を持ってこさせると、子供を二つに断ち切り、半分ずつにせよ、と申し渡しました。そして何も知らずに眠る子の上に冷たく光る剣が振り上げられたそのとき。一人の女が「その子を斬らずにあの女にあげてください、お願いです」と叫びます。これを聞いたもうひとりの女は勝利を確信しましたが、ソロモン王は、「生きている子をその女に与えよ。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ」と裁きを下す。

これらの話は、イスラム圏を経由し、北宋の名判官包拯の故事を経由し、エピソードに翻案され含まれたと考えられている。また永禄3年(1560年)に、豊後でイエズス会の宣教師がクリスマスにソロモン裁判劇を行なったという記録もあり、チベットの伝説や釈尊(釈迦)の伝説が日本のキリシタンの影響でまぎれこんだといわれている。

オピニオン誌

  • 2009/08/13(木) 09:54:15

世界
出版社:岩波書店
創刊 :1945年12月
発行数:1万部/月
特徴 :革新リベラル色の濃い雑誌であり、1950-1960年代の左派全盛時代には論壇全体の中核月刊誌として権威を誇り、その後も左派論壇の中心的地位を占めた。左派の社会運動や政治運動への影響力はあるが、直接関わることは少なく、市民運動家やフリージャーナリストに誌面を割くこともまれ。広告にも執筆者の肩書きに所属大学、研究機関名を冠するなど権威主義的な傾向がある。

正論
出版社:産経新聞社
創刊 :1973年11月創刊
発行数:8万部/月
特徴 :左派勢力全盛といった時代に対して日本の財界人また保守派を標榜する勢力は非常な危機意識を持つ。その時代背景の中、フジテレビジョンから産経新聞社社長に就任した鹿内信隆は政府・財界人の利益や保守系の立場の人を代弁するような立場を濃厚にして、広告主むけの説明会において、「反共路線による自由社会の保守と日米同盟強化」という反共主義・親米保守の持論の成果として正論路線を提唱しサンケイ出版(現・扶桑社)から『雑誌・正論』を創刊。近年では改憲論・反共論の他にも、日教組教育への批判として自前で新しい歴史教科書などにみられる独自の歴史教科書・公民教科書などを執筆・作成。

その他
WEDGE  ウェッジ   170,054 国鉄
潮      潮出版社   436,667 創価学会
新潮45    新潮社     37,167 保守
フォーサイト 新潮社     22,000 保守
中央公論   中央公論新社  43,167 読売
Voice  PHP研究所  33,467 保守
正論     扶桑社     65,650 保守
文藝春秋   文藝春秋   642,334 保守

天保の改革

  • 2009/08/04(火) 07:50:50

江戸時代の天保年間(1830年〜1843年)に行われた幕政や諸藩の改革。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした(金融・財政難からの回復を目標)。12代家慶の老中首座水野忠邦が中心となり、質素倹約の重農主義を基本とした(農本主義へ)、享保・寛政時代への復古を目指した。天保の大飢饉に伴う一揆や打ちこわし、大塩平八郎の乱といった国内不安や、アヘン戦争、モリソン号事件などの対外的不安が幕府を取り囲む中、経済改革を中心に、綱紀粛正や軍制改革などが実施された。聖域なく行われるはずであったが、数人の大奥女中に抵抗され、大奥は改革の対象外とされた。天保の改革が行われた時期には既に幕府の権威が低下し、財政のみならず行政面など問題点が多かったため、大奥の改革への妨害があり、結果的に改革が煩雑となってしまい、社会を混乱に導き改革は失敗と判断された。更に水野失脚後に株仲間が再興されたことで、幕府権力が商業資本の前に自己の政策を貫徹できなかったという、幕藩体制にとっては悪しき先例を残す結果となり、幕府衰退を早めた。これに対して、同時期に長州藩や薩摩藩はそれぞれ国情に応じた改革を実行した。その成果によって藩の財政は改善され、幕末には雄藩と言われるほどの力を得ることができた。つまり国家による政策よりも地方ごとにまかせた行政の方が「結果的に」成長力を伴うことになったのである。もしもは無いけども、各藩が改革を行わなければ幕末の日本はどのようになっていたのか?衆議院選挙後・金融危機後の日本はどうなったのであろうか?

・人事刷新
 大御所時代に幕府の風紀は乱れ、賄賂が横行したため多くの官僚を処分した。
 (政治家の賄賂が問題になっていた)
・綱紀粛正
 倹約令を施行し、風俗取締りで芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えた。(無駄使いが多かった、文化施策の予算を削減した)
・軍制改革
 アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことにより、打払令を改めて、薪水給与令を発令し、燃料・食料の支援を行う柔軟路線に転換する一方、西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせた。(他国の力を借りつつ、軍事も増強した)
・人返し令
 貨幣経済の発達により農村から都市部へ人口が移動し、幕府収入の基本である年貢がが減少。そのため、江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させ、安定した収入源を確保しようとした。(江戸から地方への人の移動)
・株仲間の解散。
 高騰していた物価を安定させるため、株仲間を解散させて経済の自由化を促進しようとした。しかし、株仲間が中心となって構成されていた流通システムが混乱してしまい、かえって景気の低下を招いてしまった。(国家による勝手な民間力の制限)
・上知令
 江戸や大阪の周囲の大名・旗本の領地を幕府の直轄地とし、地方に分散していた直轄地を集中させようとした。これによって幕府の行政機構を強化すると共に、江戸・大阪周囲の治安の維持を図ろうとした。大名や旗本が大反対したため、上地令は実施されることなく終わった。改革の切り札となるはずだった上知令は、かえって改革自体を否定することになった。(中央集権国家の失敗)
・金利政策
 相対済令の公布とともに、一般貸借金利を年1割5分から1割2分に引き下げた。そして札差に対して旗本・御家人の未払いの債権を全て無利子とし、元金の返済を20年賦とする無利子年賦返済令を発布し、武士のみならず民衆の救済にもあたった。しかし貸し渋りが発生し、逆に借り手を苦しめることになった。(金利の低下は流通を阻害する)